有賀泰治ブログ

野火焼不尽 春風吹又生

 

 

経営方針共有勉強会 8月

 

《 野火焼不尽、春風吹いて又生ず》(白楽天)

・・・・・・・・2017年8月1日

有賀 泰治

 

当社、経営計画書の「経営基本書」の文頭にある《 野火焼不尽 春風吹又生 》は日本経営合理化協会の牟田学氏からの教えであります。長い間当社の経営計画書にこの言葉を使わせていただいています。経営計画書の中での意味合いは、「野火がどんなに激しく燃えても、草を焼き尽くすことはできない。根さえしっかりとはっておけば、春風と共に、また新しい生命の芽を吹きだし、やがて緑の草原となえる」としています。

この詩に出会ったころ、日本各地でコバック車検やホリディ車検ができ、松本市でもホリディ車検がアルピコで始まり、車検代金や整備費用の値引き合戦がスタートしました。その背景は、この時代の日本経済にあり、1973年12月から続いていた安定成長期は17年3ヶ月間で終わったことです。

当社もその安売り、休日車検や短時間車検で対応する整備事業環境に対応することを迫られ、認証工場の限界を、身をもって味わっていたころでした。

指定工場を取得するには、まず、自動車検査員資格者の取得が必要で、私自ら資格を再取得しました。認証工場としての車検持ち込み合格率の確保、陸運事務所とのヒアリング、自動車検査ラインの整備、様々な高いハードルをクリアーして指定工場を取得できました。構想より10年以上がたち、本格構想してから7年目の事でした。

時代の流れをとらえ、お客さまのニーズーに答えるべく、知恵を絞った時代でした。

陸運局から、指定工場の承認をいただき、長野から戻るとき、車中での私と、内山さん、今井さんとの会話はいまだに鮮明に記憶しています。

・・・会社の再スタートの始まりでした。

その時、私を勇気づけてくれたのがこの詩でした。

 

この詩は、中国唐時代の有名な詩人、白楽天の「古原草を賦し得て別を送る」という詩の一節です。前後にも漢詩があります。

 

【賦得古原草送別】 (古原の草をふしえて送別す)

離離原上草(りりたり げんじょうの草)

一歳一枯榮(一さいに ひとたび こえいす)

野火焼不尽(やか 焼けど つきず)

春風吹又生(しゅんぷう 吹いて また 生ず)

遠芳侵古道(えんぽう 古道をおかし)

晴翠接荒城(せいすい こうじょうに 接す)

又送王孫去(また おうそんの 去るを送れば)

 

【古い草原にて、別れゆく人を見送る】

生(お)い茂(しげ)る平原の草

年に一度、枯れてはまた生える

野火に焼かれても

春風が吹けば、草はまた生える

見渡す限りの草は、古道をおおい

日光に照らされ青々とした草は

荒れ果てた城壁まで続いている

また、ここで旅立つ友人を見送れば

うっそうと茂る草のように

別れの悲しみでいっぱいになる

 

ものがたり

人生には様々な困難や問題が起こる

栄枯盛衰、事業の失敗や盛衰、

愛する人との別れを繰り返す人の世のはかなさ。

病気,死

金銭の問題

子供や友人との問題

その人に起こる困難は・・・

成長に必要な問題であり、必ず乗り越えられる問題であり、自らに課した問題でもある。

しかし、どんな苦しみや難問も、その時が過ぎれば、必ずいつか何とかなるものだ。

野火に焼かれ、草木が一本もない焼け野原でさえ、春になれば必ず新しい命が芽吹くのと同じように。

 

茶席や禅によく使われるこの漢詩ですが、禅寺に於いてはあらゆるところで拝聴する言葉です。

 

臨済宗 龍雲寺の禅に学ぶ、法話より

「離離」とは草の生い茂るさま、野火とは野を焼く火。青々と茂った野原の草も、一年に一度栄えてはまた、枯れます。冬になると野火で焼かれて灰燼に帰してしまうけれど、不思議に根だけが生き残って、3月、春風に吹かれてまた、芽を出し、青々と茂り、生命あるものの躍動に圧倒されます。

生身の肉体を持つ私たちは、生命のある限り、憎い、可愛い、欲しいというような本来的な欲望(心の働き)から逃げ出すことはできません。いま、その心の働きを煩悩(ぼんのう)妄想(もうそう)というならば、私たちは毎日、次から次へと煩悩妄想に押し寄せられています。煩悩妄想はいくら追い払っても、切り捨ててもまた、襲ってきます。まさに「野火焼けども尽きず、春風吹いて又生ず」です。

禅では煩悩妄想がすなわち菩提、悟りであるとよくいいます。しかし、煩悩妄想がそのまま、ストレートに悟りというのではありません。煩悩を転じて悟りに至るのです。煩悩妄想が悟りの種子になるのです。煩悩妄想をいったん断ち切り、否定し尽くして、初めて煩悩即菩提、現実即理想といえるのです。否定し尽くすためには、それは血のにじむような修行が必要です。禅は理屈ではありません。あくまでも実践、体験です。理屈で煩悩即菩提がわかっても、絵に描いた餅です。

通天の鼎州(ていしゅう)禅師の話です。あるとき、境内で松の落葉を一つ一つ丁寧に拾っておられるのを見た弟子が「お手ずからお拾いになる必要はありません。どうせ今、箒(ほうき)で掃きますから」といいます。禅師はしげしげと弟子の顔を見て、バカモノ! と怒ります。「そんな心でどうして修行ができるのだ。どうせなどと後をあてにするようではいかん! 一つ拾えば一つ美しくなるのだ!」と戒めます。鼎州禅師にしてみれば、掃除とはすなわち、自分の心の掃除だったのです。箒を持ったときのみが掃除ではない。毎日毎日、一瞬一瞬が掃除なのです。心に一(いち)塵(ちり)の煩悩がとまったとき、直ちにその一塵を払いのけてこそ、初めて煩悩妄想を否定し尽くすことができるというわけです。

私たちは、常に移り変わりゆく諸行無常の世に在ります。それはいつの時代も同じです。ならば、一番変わらなければいけないのはやはり自分自身です。そして問題もその答えさえも自分の中に有るものです。

私達も一緒です。生命が有る限り煩悩妄想と言うものは尽きることはありません。それは社会も同様で、その中は人間の欲が常に蠢い(うごめい)ている場所です。いくら問題になって追い払っても尽きない。まさにこの禅語の通りです

禅とは「気付き」です。答えを求めるのでなく、自ずと具わっている本来の自分の輝きに気付くところです。禅では煩悩妄想が即ち菩提、悟りであるとよくいいます。それには、実践体験からなるその「気付き」が必要なのです。理屈で解るものでは決してありません。本来より素晴らしい輝きをみせる自己を曇らせる煩悩を掃除する。毎日毎日が修行でなければいけません。難題から言い訳をして逃げるのは簡単です。出来る事だけをしていても成長はありません。常に自問自答し生き切ることを大切にしなければならないのです。そう、春風を起こすも、起こさぬも、あなた次第なのです。

 

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