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有賀泰治ブログ

12月 経営方針共有勉強会

《 六つの精進 》 2ー2

2019年12月01日
有賀泰治

「六つの精進」がすばらしい人生をもたらす
・・・・・稲盛和夫
幸せな人生を生きることは、決して難しいことではありません。この「六つの精進」を守りさえすれば、むしろやさしいことではないかと、私は思います。

昨今、経済状況が厳しい様相を呈しています。日本経済はいうに及ばず、世界経済にも厳しい状況が押し寄せています。今後、さらに経営環境は厳しさを増してくるのではないかと思い大変心配しています。
私自身が直接の経営体験を通じて考えたこと、感じたこと、こうでなければならないと思ったことを、おはなししてみたいと思っています。
「六つの精進」は、人間としてすばらしい人生を生きていくため、企業経営をしていくうえでの必要最低限の条件ではないかと思います。
これを毎日実践し続けていけば、自分の能力以上のすばらしい人生が拓けていくのではないかと思いますし、事実、私自身はそのようにして人生を歩んで参りました。
すばらしい人生、幸福な人生、平和な人生を送りたいと思うならば、この「六つの精進」を忠実に守ることが大切です。
幸せな人生を生きることは、決して難しい事ではありません。この「六つの精進」を守りさえすれば、むしろやさしいことではないかと、私は思います。

一、誰にも負けない努力をする。
二、謙虚にして驕らず。
三、反省のある毎日を送る。
四、生きていることに感謝する。
五、善行、利他行を積む。
六、感情的な悩みをしない。

 

 

2、謙虚にして驕(おご)らず。

成功する人とは、内に燃えるような情熱や闘争心、闘魂を持っていても、実は謙虚で控えめな人なのです。

謙虚であるということは、人間の人格を形成する資質の中でもっとも大切なものではないかと思います。「あの人は立派な人格者だ」ということを我々はよくいいますが、人間性の中に謙虚さを備えている人を、我々はそういうふうに表現しておるのです。
これは、成功して驕りたかぶっている人に対してだけ謙虚になれといっているのではありいません。中小零細企業のときから大企業になるまで、一貫して謙虚でなければならないと、私は思っています。
若いころ、私は中国の古典に「ただ謙のみ福を受く」という言葉を知り、謙虚でなければ幸福を受けることはできない、幸福を得られる人はみな謙虚でなければならないのだと思い、また京セラが零細企業であったころから謙虚さを大事にしてきました。
ましてや会社が立派になり、大きくなっていけば、自然と人はみな傲慢になり、有頂天になっていくものですから、そういうときにこそ謙虚さを決して忘れてはならないと自分に言い聞かせてきました。
「謙のみ福を受く」はぜひ心に刻んでいただきたいと思います。
世の中では、他人を押しのけてでも、という強引な人が成功するようにみえますが、決してそうではありません、成功する人とは、内に燃えるような情熱や闘争心、闘魂を持っていても、実は謙虚で控えめな人なのです。
謙虚な振る舞い、謙虚な態度は、生きていくうえでたいへん大切な資質です。しかし、人は往々にして成功したり地位が上がったりすれば、謙虚さをわすれ、傲慢になりがちです。こうしたときにこそ、「謙虚にして驕らず」ということが、なおのこと大切になるのではないかと思います。

3、反省のある毎日を送る

自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっているよい心を心の中に芽生えさせていく作業が、「反省をする」ということなのです。

⑴ 日々の反省によって魂はきれいになる。
「反省のある毎日を送る」
一日が終わったとき、その日を振り返り、反省をするということは、とても大切なことです。
今日は人に不快な思いをさせなかっただろうか、
不親切ではなかっただろうか、
傲慢ではなかっただろうか、
卑怯な振る舞いはなかっただろうか、
利己的な言動はなかっただろうか
などと一日を振り返り、人間として正しいことを行ったかどうかを確認する作業が必要です。
自分の行動や発言に、もし反省することがすこしでもあれば、改めていかなければなりません。そのような反省のある毎日を送ることで、人格、魂も磨かれていきます。
すばらしい人生をおくるためにも、日々反省をし、自分のこころ、自分の魂を磨くことはたいへん大事なのです。一生懸命に働くということと同時に、この反省をするということを毎日くり返していけば、魂は純化され、美しい魂、よい魂へと変わっていくはずです。
私も若いころには、ときに傲慢になることがありましたので、日課のようにして反省を繰り返してきました。

⑵ 心の庭を耕し、整備することの大切さ
年齢を重ねてからのことです。二十世紀初頭に活躍したイギリスの哲学者ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』の本から、反省をするということは、自分の心の庭を耕し、整理することなどだと知りました。
その部分を紹介します。

「人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからはどちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。」

反省をしなければ、心は雑草のみが生える荒れた庭になってしまう。ジェームズ・アレンはいっています。
続いて

「優れた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育み続けます。同様に、私たちも、すばらしい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育み続けなくてはなりません」

このように、毎日の反省をすることによって雑草を、つまり自分の邪な思いを取り除き、そこに新しくすばらしい思いを植え付けるようにしなければなりません。
つまり、邪な心を反省し、善き思いを心の庭に育ててかなければ泣かないのです。そのことをジェームズ・アレンは大変的確な表現をしています。
そして次のようなこともいっています

「正しい思いを選んでめぐらしつづけることで、私たちは気高い、崇高な人間へと上昇することができます。と同時に、誤った思いを選んでめぐらしつづけることで、獣のような人間へと落下することもできるのです。」

「心の中に蒔かれた(あるいは、そこに落下して根づくことを許された)思いという種のすべてが、それ自身と同種類のものを生み出します。それは遅かれ早かれ、行いとして花開き、やがて環境という実を結ぶことになります。良いおもいは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結びます。」

だから、「自分の心という庭の雑草を抜き、自分が望む美しい草花の種を蒔き、丹念に水をやり、肥料をやって管理をしていかなければならない」と、ジェームズ・アレンは説いています。
まさにそれが反省をするということなのです。反省することによって自分の心を磨いていくことができますし、そのことがすばらしい幸せを我々にもたらしてくれることにもなるのです。

⑶ 悪しき自分を抑え、善き自分を伸ばす
この自分の悪い心、自我を抑え、自分がもっているよい心を心の中に芽生えさせていく作業が、「反省をする」ということなのです。よい心とは、心の中心にある「真(しん)我(が)」、つまり、「利他の心」です。他を慈しみ、他によかれと思う、やさしい思いやりの心です。それに対して、「自我」とは、自分だけよければいいという「利己的な心」、厚かましい強欲な心のことです。
今日一日を振り返り、今日はどのくらい自我が顔を出したのかを考えてそれを抑え、真我、つまり利他の心が出るようにしていく作業が「反省」というものです。
インドのタゴールの紹介します。人間の心の中には邪で貪欲な、利己的な自分とともに、すばらしい利他の心、美しい慈しみの心、やさしい思いやりの心をもつ自分がいる。つまり、卑しい自分と美しい自分が同居しているということを、タゴールは次のようなすばらしい詩で表現しています。

「私はただ一人、神の下にやってきました。
しかし、そこには、もう一人の私がいました。
この暗闇にいる私は、誰なのでしょう。
その人を避けようとして、私は脇道にそれるのですが、彼から逃れることはできません。
彼は大道を練り歩きながら、地面から砂塵を巻きあげ、私が慎(つつ)まやかしにささやいたことを大声で復唱します。
彼は私の中にいる卑しい小さな我、つまりエゴなのです。
主よ、彼は恥を知りません。
しかし私自身は恥じ入ります。
このような卑しく小さな我を伴って、あなたの扉の前にくることを。」

私は良心的な、すばらしい美しい心、利他の心、真我をもっていますが、その横には、私から少しも離れようとはしない、卑しく貪欲な、利己的な私がいるのです。彼は恥を知りません。私は慎ましやかに生きていこうと思い、「あれがちょっとほしいな」とささやいた言葉を、彼は「オレはあれがほしい!あれをよこせ」と大声で怒鳴ります。
恥を知らず、貪欲で利己的な「もう一人の私」というものを、私は伴っているのです。彼から逃れようと思っても、彼は私から離れません。なぜなら、私という心の中に、その卑しい彼も同居しているからです。
だからこそ、反省のある毎日を送る必要があるのです。反省をして、邪で貪欲な、卑しい私に対して、「少しは静かにしなさい」「少しは足ることを知りなさい」「少しは他の人のことも考えなさい」と言い聞かせ、自我を押さえつけていく作業がいるのです。そうすることによって自分の魂を、自分の心を磨いていくことができるのです。
心を高めることと良い人生を送ること、経営を伸ばすことはパラレルの関係だと、私はいってきました。良い人生を送ろう、経営を伸ばしていこうと思えば、みなさんの心が高まっていかなければなりません。

心を磨くこと、ぜひそれをあらためて理解いただき、実践していただきたいと思います。

4、生きていることに感謝する。

生きていること、いや、生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって、人生を豊かで潤いのあるすばらしいものに変えていくことができると、私は信じています。

⑴ 感謝の言葉は自他の心を和ませる。
四つ目は「生きていることに感謝する」です。
この「感謝する」ということはたいへん大事なことです。自明のことですが、人はけっしてひとりでは生きていけません。空気、水、食料、また家族や職場の皆さん、さらには社会など、人は自分を取り巻くあらゆるものに支えられて生きています。いや、生かされているのです。
そういうふうに考えたとき、健康で生きているのであれば、そこには自然と感謝の心が出て来なければなりません。感謝の心が生まれてくれば、人生に対する幸せを感じられるようになってくるはずです。
生きていること、いや、生かされていることに感謝し、幸せを感じる心によって、人生を豊かで潤いのあるすばらしいものに変えていくことができると、私は信じています。
不平不満を持って生きるのではなく、現状をあるがままに感謝し、さらなる向上をめざして一生懸命に努力をする。そのためにも、まず生かされていることを神様に感謝し、自分を取り巻くすべてのものに「ありがとうございます」と感謝する毎日を送るべきだと思います。
しかし、若いころは、なかなかその感謝の心を持てませんでした。「ありがとうございます」と言葉にして発することが大切だと自分に言い聞かせ「ありがたい」と自分にいえば、気持ちは楽になり、心も明るくなってくるはずです。
自分の心を素直に表し、「ありがとうございます」と感謝の念を口に出せば、それを聞いた周囲の人々はよい気持ちになってくれて、和やかで楽しい雰囲気がつくり作り出されます。逆に不平不満の鬱積(うっせき)したトゲトゲしい雰囲気は、自分も含めた周囲の人々にも不幸をもたらしていきます。
どんな些細なことに対しても感謝する心は、すべてに優先する大切なものであり、「ありがとうございます」という言葉は、大きな力を持っています。

⑵ 隠れ念仏」で培った感謝の思い。
小学校にあがる前、父に連れられ隠れ念仏の信者の家へ行き、そこのお坊さんらしき人に言われた「坊や、一生、生きていくあいだずっと『なんまん、なんまん、ありがとう』といいなさい。毎日、必ずそういって仏さんに感謝の念を捧げるんだよ。それを忘れちゃいかん」と私に教えてくださいました。念仏を唱えるときの「南無阿弥陀仏」を鹿児島では「なんまん」というふうにいいます。
お坊さんらしき方は「いま私がいった言いつけを守っていけば、すばらしい人生を送っていけます。」
私は言いつけを、そのまま今日までずっと守り、「ありがとうございます」という言葉をいい続けてきました。
また、会社を経営している中で、私は若いころから海外を飛び回っていました。その折にはキリスト教の教会、またはイスラム教の寺院などにもよく行きました。私はキリスト教の教義もイスラム教の教義もよく知りませんが、天にいる唯一の神というものに祈りを捧げるときには、そこがキリスト教の教会であろうとイスラム教の寺院であろうと、必ず「なんまん、なんまん、ありがとう」と唱えて手を合わせていました。
この感謝の思いを現在も変わらずにもちつづけてきたことが、今日の私をつくり、今日の京セラをもたらしてくれたのではないかと思っています。

⑶ 生きていることに、ただ感謝する。
「ありがとう」とは、いまありえないことが存在する、つまり「有り難い」ことが起こっているといういみです。京セラというすばらしい会社、第二電電(現KDDI)というすばらしい会社を創業したこと、その会社が今日まで発展しつづけてきたことも、まさにありえないことです。
それは私のような男にできるようなことではない。まさに、感謝の思いによって、ありえないことが起こってしまった。そのことに対しても、「ありがたいことだ」と感謝の言葉を表していかなければならないのです。
他人に親切にして、「ありがとうございます」といわれる。そのとき、こちらのほうも心地よい気持ちがしますし、その様子を見ていた周囲の人たちも、爽(さわ)やかな気持ちになります。
善意は周囲にも伝わっていきますし、善意は循環していきます。そういうことかが次から次へと起きていけば、社会はさらにすばらしいものになっていくのだとおもいます。
生きていることに感謝することは、大切なことです。
「ありがとうございます」という言葉の他に、「もったいのうございます」「かたじけない」「かたじけのうござる」最近では使いませんが、感謝の言葉で、とてもよい心の表れなのです。
「ありがとう」という感謝のひと言は、自分にもいい気持ちをもたらし、それを聞いた周囲の人たちにもまた、すばらしい影響を与えていくものです。

5、善行、利他行を積む

利他行、つまり
親切な思いやりの心、慈悲の心で人にやさしく接することは、たいへん大切なことです。
必ず、あなたにすばらしい幸運をもたらしてくれるからです。

⑴ よい行いを積むことが幸運をもたらす。
「善行、利他行を積む」
中国の古典に、「積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり」という言葉があります。善行、利他行を積んだ家にはよい報いがあるという意味です。善行を積んだその本人だけでなく、家全体、一族までよいことが起きるということを、中国の先賢たちはいってきたわけです。
世の中には「因果応報の法則」があると申し上げてきました。安岡正篤氏も、この世の中には因果応報の法則があり、よい行いを重ねていけば、その人の人生にはよい報いがあるということがあると述べています。
そのように、利他行、つまり親切な思いやりの心、慈悲の心で人に優しく接することは、たいへん大切なことです。必ず、あなたにすばらしい幸運をもたらしてくれるからです。
よいことを実行すれば、運命をよい方向へ変えることができるし、仕事も良い方向へと変化させていくことができる。私はこのことを信じて、経営の局面でも善行、利他行を実践するように努力してまいりました。
バカ正直に善行を積むこと、つまり、世のため人のために一生懸命利他行に努めること、それが人生を、また経営を良い方向へと変えていく唯一の方法だと思います。

⑵ 人のためには「小善」でなく「大善」をなせ
「情けは人のためならず」といわれてきました。他人のために行った善き行いは、必ずその当人にかえってくるという意味です。
一方、他人に親切をして面倒をみてあげたのに、ひどい目にあってしまったという話も聞きます。
ただ単に情けをかけてあげればよいというものではなく、判断するときに小善的な判断をしたのか、大善的な判断をしたのか、情けのかけ方が問題なのです。
「小善」とは相手のことを心から考えず情けをかけることで、「大善」とは「かわいい子には旅をさせよ」というように、一見すると非情と思えるくらい、相手の苦難を正面から受け、立ち直っていくように導いていくことこそが「大善」なのです。
善行において、お礼や見返りを考えず、時に厳しく、時に冷淡であってもその人のためと心より思い、決断してきた行為は悔いることは一度もありませんでした。
立派な人生を送るためにも、真の善行、利他行を積むということに努めてください。

6、感性的な悩みをしない

すんだことに対して深い反省はしても、感情や感性のレベルで心労を重ねてはなりません。
理性で物事を考え、新たな思いと新たな行動に、ただちにうつるべきです。

⑴ 失敗は、反省したら忘れなさい。
「感性的な悩みをしない」私自身、わかいころにいろいろ悩みを持っていたために、こういう考え方が大切だと感じました。
人生では心配事や失敗など、心を煩(わずら)わせるようなことがしょっちゅうおこります。しかし、一度こぼれた水が元へ戻ることがないように、起こしてしまった失敗をいつまでも悔やみ、思い悩んでも意味はありません。
クヨクヨと思いつづけることは、心の病を引き起こし、ひいては肉体の病につながり、人生を不幸なものにしてしまいます。すでに起こってしまったことはいたずらに悩まず、あらためて新しい思いを胸に抱き、新しい行動に移っていくことが大切です。
すんだことに対して深い反省はしても、感情や感性のレベルで心労を重ねてはなりません。理性で物事を考え、新たな思いと新たな行動に、ただちに移るべきです。そうすることが人生をすばらしいものにしていくと、私は信じています。
仕事に失敗して、我々はよく心配をします。しかし、いくら心配しても、失敗した仕事が元に戻ることはありません。悔やみ、思い悩んでも無意味だということはよくわかっていても、なお「あれがうまくいっていれば・・・」などと思い、悩んでしまうものです。
「感性的な悩みをしない」とは、こうした意味のない心労を重ねることをやめるということです。起きてしまったことはしょうがありません。キッパリとあきらめ、新しい仕事に打ち込んでいくことが肝心です。
道徳的にも法律的にも不名誉なスキャンダルに襲われ、身も心もズタズタになるくらい心を悩ませても、十分な反省、また二度とそういう不祥事は起こさない決意をし、クヨクヨと心配する必要はありません。逆に自分を励まし、立ち直っていけるようにしていくことが大切です。反省したら、勇気を奮い起こして新しいことに打ち込むことです。

⑵ 逆境のときに私を救った師のひと言
私自信が、このことを強く思ったのは、今から二十数年ぐらい前にファインセラミック製の人工膝関節についてマスコミに叩かれたときです。
セラミックで人間の骨の代わりとなる人工歯根や人工股関節を開発しました。厚生省(当時)許可を受けて販売、その後膝関節のセラミックを多くの医師の要請を受けて、人工膝関節を作り供給しました。しかし、要請はあったが認可を受けていませんでした。
その結果、「今日セラは厚生省の認可を受けずにファインセラミック製の膝関節を売って金儲けをしている。命に関わる医療分野において、商売のために認可を受けていないものを売っている悪徳業者だ」と新聞雑誌に書きたてられました。
これは私にとって不名誉どころではありません。厚生省へ説明に何度か行き、お詫びもしました。そのたびにテレビカメラの放列が敷かれ、私が頭を下げている姿が連日のようにテレビに流されました。家族、会社の人、近所の人に対して顔向けできず、私の信用、名誉が大きく傷つけられたのです。
いてもたってもいられられないくらいに、心を痛めました。そのときに私が頼ったのが、臨済宗妙心寺派円福寺の西方擔(たん)雪(せつ)ご老師でした。
相談すると老師は「稲盛さん、そういう苦労をするのも生きているからですよ。死んでしまえば、そんな苦労はしません。生きていればこそ苦労するのですから、それはよいことではありませんか」といわれます。
「そういうものかな」と思いましが、どこか腑に落ちない顔になっていたと思います。
続いてご老師はこうおっしゃいました。
「稲盛さん、あなたが過去にどのような罪、穢(けがれ)れを積んだのかは知らないが、積んだその業(ごう)は災難という姿になって、この現象界に現れます。ひどい目にあったということは、あなたが過去につくった罪、穢れ、つまり業が結果として出てきたということで、そのときに業は消え去っていくのです」
「それがあなたの命を奪うようなものであれば、それで一巻の終わりとまるけれども、稲盛さん、あなたは元気にしていらっしゃるではありませんか。京セラもまだ立派に隆々と栄えている。人工膝関節の問題で囂(ごう)囂(ごう)たる非難を浴び、あなたは身の置き場がないくらいに悩んでいますが、その程度のことですんでいます。そのくらいのことで過去の罪、穢れが消えるのですから、稲盛さん、赤飯を炊いて、酒盛りをしてお祝いをせないけません」
それでもまだ納得はできませんでしたが、しだいにご老師の言葉に救われる思いになってきました。これくらいで私の罪、穢れ、が消えるのであれば、甘んじて世間の非難を受けようと思ったのです。これは自分の身を清めるために必要な懺悔(ざんげ)なのだと心で受け止めた瞬間から、身も心も晴れ晴れとしていきました。
災難にあったとき、それは自分が過去に犯した罪、穢れ、業 つまりカルマが結果となって出てきたのだと考えるのです。命までとられるわけではなく、その程度ですんだのであれば、むしろお祝いをしなければならない。そういうふうに思い、すっきりとそのことを忘れ、新しい人生に向かって力強く、希望を燃やして生きていく。そのことがすばらしい人生を生きていくために必要なのです。
今後生きていくうえで、波風、山や谷のトラブル、災難が訪れても、それを乗り越え、感性的な悩みをせず、前向きに力強く生きていくことが大事です。

ぜひ「六つの精進」を学び、実践し、すばらしい人生を歩んでください。

(2008年7月17日「盛和塾全国大会」での講話のもとに編纂を加えた内容。)

 

 

2019 12 01

有賀泰治

2か月に渡り稲盛和夫氏の六つの精進を社内で勉強して、心に強く感じたこと! 資料とは別に社内で話したことを記載しました。

 

・人生は、振り返れば「ほんの一瞬」であり、しかも「諸行無常」で、明日のことは誰もわからないものである。

 

・「諸行無常」は、万物は常に変化して少しの間もとどまらない。

 

・だからこそ「今」という瞬間を大事に生きることである。「今を生きる」

 

・しかし、天(神)は、容赦なく私たちに「禍福禍福・・・」(交互にやってくる)を試練として公平に与え続ける。そこで、「禍」を与えられた時の対応、「福」を与 えられた時の対応如何で人生は決まってくる。

 

・「諸行無常」は、仏教の根本思想の一つ。「森羅万象、この世で起こることは一切が、片時も留まっていない」という教えです。ところが人間というのは、自分に降りかかる変化を嫌って、「無常」に逆らおうとします。どんなに頑張って無理をし ても、無常を打ち負かすことはできないのに。

 

・まずは無常を受け入れる。逆らってジタバタと、もがくより、無常の流れに 身を任せることにエネルギーを使ったほうがいい。気持ちがラクになるし、人生も 必ずいい方向に向かっていきます。

 

・通勤途中でも、散歩に出た道すがらでも、あるいは家や会社の窓から外を眺めたと きでも、意識して自然の移ろいに目を向けるといいでしょう。

 

・たとえば春になれば、桜の木の枝につぼみが現れます。そのつぼみが日ごとにふくらんで花が開いていくさまがつぶさに見てとれます。夏が近づくと草がしだいに強くなっていくことに、秋が深まるにつれて落葉樹の葉が少しずつ色を変えることに 気づくし、冬は朝に地表を覆う霜を発見して寒さを実感するでしょう。

 

・それは「小さな悟り」のようなもの。自然の営みが見せる刻々の変化を感じ取れるのは、心にゆとりがあって、「無常」に対する感性が鋭敏になっているからです。 逆にいえば、「無常」を感じることは心のゆとりをつくることでもあるのです。

 

・私たち人間には、この「諸行無常」が、「禍福禍福」を伴って等しく与えられて いるのです。それなのに、ほとんどの人間は、この「諸行無常」に気が付かず、目先の利害損得に窮しているのです。世の中の争いやトラブルの原因はここにあるのです。

 

・私たちは、生まれてからこれまで、生活手段としての知識や教養を追い求めてきまし た。それはそれで大事なことですが、それ以上に理解を深めなければならないことは、「諸行無常」だと感じました。

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